一般社団法人日本ALS協会
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支部長から
 

ALSひるまず力まず26 ~できることにベストを尽くす~

私の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を中心に連載を進めてきましたが、皆さんどう感じましたか? この病気はなかなかの難敵だが、幸いなことに先人たちの経験から、次に起こる症状が容易に予見できる。心構えをして、準備をすることも可能だ。

 

家族でいろんな所へ出掛ける私(中)

ALSになっても新しい出会いがいっぱいある

口から食べられなくなり、体重が減ってから受ける人の多い「胃袋ピアス」(胃ろう)は、体重80㌔のころに太鼓腹を貫いて開けた。呼吸困難になって急いで開けることの多い「喉ピアス」(気管切開)は、人工呼吸器を着ける2年も前に開けて備えた。視線入力パソコンも、両手でかろうじてマウス操作ができるうちに導入。視線とマウスを併用しながら、いち早く操作に慣れた。

健康に暮らしていた私は自分の体が動かせなくなるなんて想像すらしていなかった。似たような病気や事故で、頭ははっきりしているのに体が自由にならない方が意外といる。皆さんや周りの方が突然、そうなることもあるかもしれない。そんな時にちょっとだけ私を、この連載を思い出していただけると幸いだ。

 多くの方から「病気に負けず、前向きですごいですね」との言葉を頂戴するが、微妙にニュアンスが違うように感じる。この病気はあらがってみたところで歯が立つような相手ではない。それに早くに気が付き、病気を受け入れ、長く付き合うことにした。自己のできることを見つけ、そんな中でベストを尽くすってところだろうか。

 ALSは進行に伴って、次から次へと体の機能を奪っていく。そんな様子を見て多くの方が同情する。でも、歩けない脚の代わりに車いす、のみ込みのできない口の代わりに胃ろう、動かぬ手の代わりに視線入力パソコンがある。呼吸を助けるのは人工呼吸器だ。病状が進むと、失った機能を回復するツールが増えるのが病気の特徴。義足や義手、歯がない人の入れ歯、目の悪い人の眼鏡と違いはないはずだ。

 ALSは奪うばかりではない。新たな出会いがあり、体が動かないことで学んだこともたくさんある。失ったものを10とすると、得たものは6といったところ。これからの生き方次第で、6を8に、10に、15にできるものと私は信じる。

 人生、これからが勝負じゃ!

(おわり)

<中国新聞 2019年(令和元年)10月9日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず25 ~30年の間に治る病気になる!~

夢の中の私はたいてい健常者である。目が覚めると体の動かない現実にショックを受けるのが毎朝のルーティンだ。「不治の病」といわれる筋萎縮性側索硬化症(ALS)だが、それは「今のところ」不治なだけだ。iPS細胞の登場もあって根本治療に急速に近づいており、完治可能になる日も夢ではない。

人工呼吸器を装着する前には日に日に弱る体を思っては、死ぬ日のことばかり気になっていた。しかし、ピタリと進行が止まった今、このまま平均寿命まであと30年間生きられそうな気がする。自分の体だからよく分かる。いや必ず生きる! 不治の病ALSだからこそ、人一倍「生」への執着が強いのさ(笑)。

 

イラスト・銀杏早苗

「30年の間には必ず治る病気になる!」。そう信じるので準備もぬかりない。いつでも歯医者として診療を再開するつもりでいる。誤嚥(ごえん)性肺炎の予防に有効とされる、声門を閉鎖する外科的手術も受けないことにしている。治れば再びしゃべり倒すつもりだから、声門が元に戻らないのでは困るのだ。

病気が治っていくってどんなのだろう? 病気の進行のように、ゆっくりと何年もかけて戻るのかな? あるいは手術を受けて、麻酔から目が覚めるとコロッと治っているのかな? 想像しただけで楽しいぞ。「病気が治る=神経細胞の回復」といえるので、痩せ衰えた筋肉を復活させるのには月日が必要だろう。

生まれ変わった私はデブにならないように、バランスよく筋肉を付けたい。そして腕力まかせではなく、背負い投げを中心とした正しい柔道を身に付けるぞ。モトクロスも寄り道をせずに、いいマシンといい体制で今度こそ国際B級(国際A級は多分無理)を目指す!オートバイで世界一周してもバチは当たるまい。

今は口から食べられないが、もともと超食いしん坊だったので、プロ料理人になるのもいい。その気になって料理番組を見ては、勝手にメニューを組み立てるのも楽しい。誤嚥性肺炎で死にかけた経験から、大学の研究室に戻って誤嚥性肺炎の研究もしてみたい。おっと、これは娘と机を並べることにもなりそうなので、多分嫌われるな。

 こんなことを日々想像させてくれるALSは、わが親友だ。

 <中国新聞 2019年(令和元年)9月18日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず24 ~介護必要でも働く権利がある~

手は動かなくなり、義歯を作ったり、歯を削ったりはできなくなった。が、今も現役の歯科医師だ。やめたつもりはない。広島市歯科医師会の広報部副委員長でもある。対外向けの広報活動と、会員向けの会報誌づくりが主な仕事だ。

  

イラスト・銀杏早苗

人工呼吸器を着けているためしゃべれないが、パソコンを用いる仕事ならちゃんとできる。文章を書く能力や動画を編集する能力は増したように思う。歯科医師会の仲間は遠慮なく仕事を用意してくれる。これぞ真のバリアフリーだ。できる仕事には全力投球じゃ!

医療職や学生に向けて、パワーポイントを視線で操作して、講義や講演をすることもある。誤嚥(ごえん)性肺炎を防ぐはずの歯科医なのに、誤嚥性肺炎を起こした経験も、口の中のケアについて話すのに役立っている。

歯科医として筋萎縮性側索硬化症(ALS)に対して何ができるのかを考え、活字として残す活動もしている。広島県歯科医師会の会報誌には「ALS恐るるに足らず 歯科医が綴(つづ)るALS考」と題する手記を長期連載中。3年目だが、ネタは尽きない。書き続けることで暮らしに張り合いもできたし、何より知的好奇心を満たしてくれる。この連載も会報誌を読んだ中国新聞の記者から依頼されたものだ。

私は病気に侵されようとも、仕事は続けるべきだと考える。できなくなったことを憂うのではなくて。形は変えてもいい。努力すればできることは無限大だ。専業主婦だった女性が、おふくろの味を伝えるのも立派な仕事だろう。

ただし大きな問題がある。重度障害者が経済活動をすると、受けられない介護のサービスがあるのだ。分かりやすく言うと、家でテレビを見て過ごすにはヘルパーを頼めるが、仕事をするとそれができない。これでは労働意欲が湧かない。介護が必要な者も働く権利があるはずだ。少なくとも私は働きたいし、納税もしたい。

さいたま市では本年度、重度障害者が在宅で働く場合に、ヘルパーを利用できるようにしたという。さいたま市だけでなく全国で、出勤を伴う仕事でも利用できるようにしてほしい。制度が変わることを信じて、人工呼吸器を装着した私は仕事を続ける!

<中国新聞 2019(令和元年)9月11日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず23 ~音楽やペット 息抜きのススメ~

四六時中、仕事ばかりでは息が詰まりそうになる。体は動かなくとも心まで筋萎縮性側索硬化症(ALS)に侵されてはならない。楽しみを持つことは仕事と同様に大切だ。

お気に入りの音楽を聴くためのスピーカー

小学生の時にラジカセを手にして以来、オーディオに興味を持った。当時多くの男子は、自転車かラジカセかカメラに夢中になった。私は途中でオートバイと車に浮気したが、ALSのおかげで二十数年ぶりに本来の趣味に帰ってきた。

手は動かなくても耳は健在だ。4千枚分のCDを音楽再生ソフト「iTunes(アイチューンズ)」で操れば、夢のような音楽環境ができる。パソコンで原稿に向かうときも、ベッドでリハビリを受けるときも、お気に入りの音楽で部屋を満たせば、自然と笑みがこぼれる。

スピーカーも自作する。部品を選びながら図面を引き、出来上がりの音を想像するのは何よりも楽しい。ロックコンサートにも足しげく出掛ける。ライブハウスでは、主催者の配慮により最前列が指定席だ。

フェイスブック(FB)に日々の暮らしを投稿するのも楽しい。遠く離れた同級生、歯科医の仲間、全国の患者と連絡を取るようになると、社会が広がった。病名告知と同じ2011年10月に始めたのでALS歴と同じだ。FBのサービスが終わる時は、私のALSが完治する日か死ぬ日だろう(笑)。

愛犬のチワワのハレと戯れるのも、生活に潤いを与えてくれる。視線入力パソコンの人工音声で「ハレ君!」と呼べば、どこからでも駆け付けてくれる。どうやら犬なりに、父さんは体が動かせないけれども、自分を愛してくれているのが分かるようだ。

私には大学1年の娘がいる。病人の前に一人の父親で、娘を思う気持ちは人と変わらない。娘が小学6年のときにALSを発症し、親子3人で病状の進行に追われた。中学、高校の間は父親らしいことをしてやれずに寂しい思いもさせたはずだ。それでも娘は私の背中を見てくれていた。

今、私の母校の歯学部に通っており、学校や部活のこと、友達のことなどの話をしてくれる。学校の先輩として歯医者の先輩として、そして父として、これまで以上に頑張らなくては!

<中国新聞 2019年(令和元年)9月4日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず22 ~人工呼吸器思ったより快適~

人工呼吸器を着けるか否かを決断するには大きな勇気が必要だ。

私は病名を告げられた直後に主治医から問われ、大して考えもせずに「装着します」と返答した。だが、今考えてもいささか急がせ過ぎだった気がする。装着後の方が長いのに、どんな暮らしになるかなんて誰も教えてくれなかった。「地獄のような暮らしになるぞ、それでも装着するのか?」とアドバイス(?)をくれた人もいた。

徐々に進行する病状に死を覚悟した。頭はクリアなのに、ひたすら天井を見つめるだけの日々を想像しては絶望した。日本では合法化されていない安楽死を考えなかったと言えばうそになる。会う人会う人に病名を語っては、同情が欲しかっただけの時期もあった。

 

  イラスト・銀杏早苗

週刊誌で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の徳田虎雄医師の連載を読んでいた旧友は「良かったじゃないか。死ぬような病気じゃなくて」と言った。「不治といわれる病気に『良かった』だと?」と不快に感じたものだが、今思えば、彼が一番、病気の本質を捉えていたのかもしれない。

介助する家族の負担を考えて、人工呼吸器の装着を拒む人も少なくない。だが、妻は「装着すればALSが原因で死ぬことはないんだって~。生きようよ。生きて!」と、悩む私の背中を押してくれた。

患者会に相談に来る患者の多くが「延命措置は受けたくない」「胃ろうも人工呼吸器もしたくない」と言う。死生観は人によってさまざまなので、個人の考え方は尊重しなければならない。しかし、私は心の中でこう叫ぶ。「分かってないなぁ、俺を見てみろ。延命措置ではないぞ。絶対に」

人工呼吸器を装着してみて驚いたのは、想像以上に快適だったこと。そして、酸素不足から解放されたのか、病状の進行がピタリと止まったことだ。妻が「こんなことなら、悩まずにもっと早くに人工呼吸器を装着すればよかったのに」と漏らすほどだ。

ALSで家庭崩壊する例もあると聞くが、わが家の場合はかえって家族の絆が増したようだ。ALSもまんざらではないな(笑)。ALSが、神が私に「必ず乗り越えよ」と与えた使命ならば「よし! 乗り越えてやろうじゃんか!」。

<中国新聞2019年(令和元年)8月28日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず21 ~ヒトとしてごく普通に接して~

重度障害者になり、電車内やレストランなど、いろいろな状況で差別や冷たい視線を受ける。「それなら、出掛けずに家でジッとしていたらいいのに」と言う人もいるが、それは違う。そもそも私にジッとしろというのは無理な注文というものだ(笑)。

 

筋委縮性側索硬化症(ALS)患者の中には、動かなくなった自分の姿を他人がどう思うかを気にして外に出られない人もいる。差別意識や偏見は、年齢のいった大人に強い人が多いようにも感じる。若者はそうでもないのに・・・。

 

 

    イラスト・銀杏早苗

 人という生き物は、自分と異なった性質を持つ人間と接すると最初は戸惑い、慣れてくると自分の都合のいいように勝手に解釈し始める。偏見と差別の始まりだ。外国人をよく知ろうともせずに、出身国だけで自分より低く見る大人は周りにいないだろうか?

 「身体障害者を特別に優しい目で見てくれ」と言っているように思われるかもしれないが、決してそうではない。ごく普通に接することこそが差別をなくすものと私は考える。身体障害者のみならず知的障害者、精神障害者を含むすべての人が幸せに暮らす社会を実現するのが、われわれの世代に課せられた使命だろう。私は今後も車いすに人工呼吸器でどんどん行動して、人々の意識を変えていきたい。

 ALSのほかにも、似たような病気や、事故によって頭ははっきりしているのに身体が自由にならない人が意外なほどいる。私も元気な頃に、重い意識障害の人、寝たきりや重度の身体障害者を歯科診療する機会があった。

当時の私はコミュニケーションが取れないものと一方的に決めつけていた。ヒトとして接することを怠り、モノとして接したように思う。申し訳なさと後悔の念でいっぱいだ。たとえ反応がなく、一見コミュニケーションが不可能と思われる人も、意思を表現する手段を失っているだけで意識があるのかもしれない。

体の自由を奪われた今なら、もっといい歯科医師になれる自信があるのに。ALSになってからの人生も日々勉強だと思えば、体が不自由なことなど小さな問題に思えてくるから不思議だ。これだから ALSはやめられない(笑)。

 

<中国新聞 2019年(令和元年)821日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず20 ~教育を受ける願い奪わないで~

筋萎縮性側索硬化症(ALS)に似た脊髄性筋萎縮症(SMA)という病気がある。ALSと病態や発症後の経過もよく似ている。大きく違う点は、乳幼児時期になることと、遺伝性であることが明らかな点だろう。「乳幼児のALS」とも呼ばれている。

私はALS発症以前には知らなかった。患者に会ったこともなかった。現在では多くのSMA患者と接するようになり、理解を深めたつもりだ。ALSと同じく運動神経だけが侵されるので、知能や知覚には異常は見られない。特殊なパソコンを使って大学を卒業した人や、センター試験で9割以上を得点し京都大で学ぶ学生もいるという。

   イラスト・銀杏早苗

2018年8月、こんな報道があった。「人工呼吸器使う女児の母親に『養護学校のほうが合っている』 兵庫・宝塚市教育委員が発言、差別認定」

兵庫県宝塚市の公立小4年の女の子はSMAを患っていた。70代の男性教育委員が、この女児の母親に「養護学校のほうが合っているのでは」と発言した。母親が「本人がこの学校に行きたいといっている」と返答したところ、「本人はそうかもしれないけれど周りが大変だ」「みんな優しいんやね。中には『来んとって』という学校もあるからね」と言ったという。

こんな例もある。友人で人工呼吸器を装着しているSMA女性は、自らの暮らしを会員制交流サイト(SNS)に公開している。そのSNS上に、見知らぬ人から「そんな姿で生きていて楽しいのか? 何のために生きているのか?」と書き込まれて泣いていた。

宝塚市の一件はおそらく教育委員に悪意はなかったのだろう。知能には影響がないという病態を知らないために起きたと思われる。

ALSと違い、SMAは乳幼児期に発症するため、「指折り数えることができないので、数の概念がつかみにくい」「声を発することができないので、言葉を覚えにくい」という傾向がある。ペンを持つこともできず、学習に大きな障害があることは明白である。

しかし、体が自由にならないからこそ、学問を身に付けることは生きていく上で重要なはずだ。困難を抱えながらも教育を受けたいという本人や家族の願望を断つような発言は許されない。

 

<中国新聞 2019年(令和元年)814日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず19 ~無礼な扱い 一度や二度では~

人工呼吸器を装着し、声を発することができない。その上、体が動かせない私はかなりの頻度で、ばかにされるような扱いをされてきた。

 入院中の病院では、専門職たる看護師が耳元で「三保さ~ん、僕のことが分かりますかぁ~」。耳が遠い高齢者に話し掛けるように、鼓膜が破れんばかりの大声で話し掛けてきたことがある。また、私の存在を無視するかのように、看護師同士が頭上で雑談を始めたなんてことも一度や二度ではない。(わしゃあ、耳はよう聞こえるし、頭も悪うないつもりじゃ)

イラスト・銀杏早苗

 また、かろうじてしゃべれていた時期に仕事で出会った司法書士からこんな扱いを受けた。「病気で思うようにしゃべれないんですわ」と説明した父の声は届かなかったようで、席に着くなりチラッチラッと私を見る視線がどうも怪しく、いや~な予感がしていた。

 業務上の説明を一通りした後、私に確認を取る際に「今までの説明が理解できますか?」。大きくうなずくと同時に渾身の力で「は・い」と答えた。どうやら納得いかなかった様子で、「では確認のため、名前と生年月日を言ってみてください」と。

 再び私は渾身の力で「み・ほ・こ・う・い・ち・ろ・う・しょ・う・わ・よ・ん・じゅ・う・に・ね・ん・ろ・く・が・つ・じゅ・う・ご・に・ち・うま・れ(三保浩一郎、昭和42年6月15日生まれ)」と、聞き取りやすいようにゆっくりと答えた。

 しかし、ため息とともに「ダメですねえ」とのたまう。 空気を察した父がすかさず「先生、(しゃべりにくいのは)病気なんですわ」。妻も「話の内容はすべて理解できてますので」と助け舟を出したのも無駄だったようで、「この方はどの程度まで理解できるのですか」ときた。

 これにはさすがに驚いた。 オッサンより、よっぽど頭はエエつもりじゃ!何なら英語でも数学でも、国語でも理科でも社会でもええ、勝負しちゃろうか。という思いはのみ込んで「(医師の) 徳田虎雄と同じ病気だ」と言ったのを妻が聞き取り、通訳してくれた。それでもなお納得しない彼は「あの人は体が動かないだけで、頭はまともなんですよねぇ」と言う。跳び蹴り食らわせちゃろうか!

 <中国新聞 2019年(令和元年) 8月7日 (水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず18 ~優しい社会へ国政で暴れて~

国民の代表が人工呼吸器と介助者を必要とするー。大いに結構ではないか。

 

参院選で当選を決めた「れいわ新選組」の船後氏。右は山本太郎代表(21日)

 21日の参院選では、「れいわ新選組」の船後靖彦氏(61)が当選した。船後氏は筋萎縮性側索硬化症ALS)の患者である。今後、注目を浴びることで、ALSの治療法の開発が進むだろう。 治療や介護の環境整備も前進するはずだ。

 船後氏とは以前よりフェイスブック (FB) を通じて友人だ。メールでも何度かやりとりをしたことがある。20年前にALSを発症した船後氏は、2002年には人工呼吸器と胃ろうを装着している。 体の状態はほぼ私と同じだ。14年には千葉県の松戸市議選に立候補し、落選している。

 今回の参院選では、脳性まひの患者、木村英子氏(54)も当選した。国会側は議場への大型車いすの乗り入れ、介助者を同伴しての登壇などができるよう対策を急いでいるという。

 実は、衆議院では年前、信じられない出来事があった。ALS患者を、厚生労働委員会に参考人として呼んでおきながら「コミュニケーションに問題あり」として意見陳述を拒んだのだ。それを思えば隔世の感を禁じ得ない。

 国民の注目は「人工呼吸器を装着した船後氏にまっとうな議員活動ができるのか」だと思う。テレビ報道を見る限り、あらかじめパソコンでつづった原稿を代読してもらっているようだ。受け答えは、透明の文字盤を目で追うのを介助者が読み取り、介助者が声を発して行うという。

他人を介しての言葉では、人の心は動きにくいのも事実だろう。船後氏には誰もが納得する発言方法を実現してもらいたい。国政で本会議場に立つからには「障害があるからできません」というお涙頂戴では駄目だ。船後氏には「そんな心配は杞憂でした」と、言わせるだけのバイタリティーがあると信じている。

 難病患者が暮らしやすい社会の実現はいまだ道半ばだ。しかし、実現すれば、高齢者やベビーカーに乗る乳幼児にとっても優しい社会にきっとなるはずだ。高齢化や少子化への対策にもつながる。

 船後氏たちには、政治思想の垣根を越えて、難病患者の社会進出の一助となる政策の実現のために暴れ回ってほしい。

 

<中国新聞 2019年(令和元年)31日(水曜日)掲載>

 

ALSひるまず力まず17 ~後ろの席から邪魔扱い 何でだ~

しゃべれないから、車いすだからといって自宅に引きこもっていては、心まで病気になってしまいそうだ。 私は車いすに視線入力パソコンを取り付けてどこにでも出掛ける。 自家用車や介護タクシー、新幹線、路面電車、時には路線バスに乗って外出を楽しむ。

 耳はよく聞こえる。コンサートホールやライブハウスにもよく出掛ける。たいていはアーティストや主催者が車いすでも快適に過ごせるように、うれしい配慮をしてくれる。しかし、米国のグラミー賞ジャズシンガー、ノラ・ジョーンズのコンサート会場ではこんな扱いを受けた。 

 

            イラスト・銀杏早苗

 

車いすで鑑賞し、介助が必要な旨を事前に連絡した上で、車いす席に到着した。すると背後から「そこっ、見えなくなるでしょ! どういうこと?」と罵声が飛んできた。振り返ることができないため定かではないが、声の様子から60代の女性とみた。会場スタッフにも大きな声で「私はお金を払ってこの座席を買ったのよ」と。(ワシも金払っとるわ! 妻と介助者のを含めて3人分) 

「ロザーナ」「アフリカ」で知られる米国のロックグループTOTOのコンサートでも、後席より「邪魔だ!」と罵声を浴びせられた。筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘っていたメンバーの一人が、亡くなったばかり。彼も草葉の陰で泣いていることだろう。  

世の中のバリアフリーが進む現在だが、車いすで出掛けるとさまざまな場面に出くわす。車いすに乗らないと分からないだろうが、道路の途中で歩道が途切れていたり、新しくできた歩道であっても路面に石畳風のタイルが貼られていたり…。「わざわざ路面をガタガタにしてるのか」と思うことがある。旅に出ようと思っても、行き先のJRの駅での介助を断られ、旅を断念したこともある。 

何でもかんでもバリアフリーが良いと言うつもりもない。名古屋城の大天守が木造再建されるとの報道に「バリアフリー化を。時代の逆行だ」と障害者の団体から声が上がっていると聞く。歴史的建造物の魅力を伝えるため、私自身は車いすで入れなくなっても、歴史に忠実な再建に賛成だ。でも、少なくとも公共交通機関や道路はバリアフリー化が進むといいなあ。   

<中国新聞 2019年(令和元年)7月24日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず16 ~マツスタで快適 カープ観戦~

小学2年生のとき初優勝した広島東洋カープとともに成長した私。もちろん生まれながらのカープファンだ。個人でも年間10試合ほど観戦に出掛けては、応援に声をからす。おっと!声は出んのだった(笑)。 

旧広島市民球場とは大違いで、マツダスタジアムは車いす使用者も安心して観戦できる広島県民の誇るべきバリアフリースタジアムだ。そんな場を日本ALS協会広島県支部の会員の交流に使わない手はない。 

車いす席はコンコース沿いなどにズラリと約140席を確保する。屋外球場のセ・リーグの本拠地と比較すると、2010年に近代化改修工事を終えた甲子園球場は31席、神宮球場は17席、横浜スタジアムは11席。マツダスタジアムは座席数で大きく他球場を引き離しており、介助者とともにゆっくり観戦できる。 

特筆すべきは他の球場と異なり、車いす席のほとんどが雨にぬれない位置にある点だ。突然の降雨に、さっと雨宿りに動けない車いすの使用者にはうれしい。各所に親切なホスピタリティスタッフを配した上に、必要とあらば人工呼吸器や吸引器用に電源まで貸してくれる。車いすでも快適に使えるトイレの数も多い。

カープ観戦したマツダスタジアムで写真に納まる日本ALS協会広島県支部のメンバー(2018年5月)

 

ALS患者の多くは外出が思うに任せず、支部月例会はいつも低調な参加率だった。さて、三保支部長の新しい試みとして企画したカープ観戦はいかに…。 

最初は「野球なんてテレビで見ればいいのに…」と敬遠していた患者もいた。でも、いざ参加してみると球場の空気に表情も緩みっぱなしだった。人工呼吸器を装着した車いすのALS患者がずらりと並んだ姿は圧巻だった。 

ただ、問題がある。他のカープファン同様、カープの成績が上がるのに合わせて、チケット入手も困難を極めるのだ。観戦企画の持続開催が危ぶまれる。会員はゆっくりと観戦できるパーティールームを希望しているが、3年目を迎えた今年もいまだ実現できないでいる。本連載を読んだカープ球団からお声が掛かるはずだろう(笑)。 

自宅にこもっていた患者も重い腰を上げるなど、カープには薬をも上回る不思議な力がある。当分カープファンはやめられそうにない。やめるつもりもないが。 

<中国新聞 2019年(令和元年)7月3日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず15 ~介護士の「痰吸引」広がれ~

呼吸するための筋肉が弱くなると、人工呼吸器の力を借りることになる。カニューレと呼ばれるプラスチックの器具を喉に装着するのだが、その刺激でたんが出てくる。取り除かないと窒息してしまう。常にたん吸引できる態勢で生活しなければならない。

            イラスト・銀杏早苗

 

従来は医師や看護師などの医療従事者と患者の家族しか、たん吸引ができなかった。だが、厚生労働省は2012年度、研修を受けた介護士にも門戸を開いてくれた。小さなことと思われるかもしれないが、人工呼吸器を着けて生活するわれわれにとっては大きな前進である。 

たん吸引が避けられない患者が家庭にいると、家族は近所のスーパーへの買い物にすら出掛けられない。息の詰まりそうな暮らしから解放してくれることが、家族の「生活の質」をどれだけ高めてくれることか。 

現在、8人の介護士が生活を支えてくれているおかげで、笑顔にあふれた毎日を送れている。私があちらこちらに出掛けたり、歯科医師会の仕事や講演を引き受けたりできるのも、彼ら彼女らの存在抜きには考えられない。 

ところがどうだろう。広島市や近隣のほとんどの介護事業所では、リスク回避を理由にたん吸引を必要とする患者を受け付けないのが実情だ。私が発症して間もないころ、妻が区役所で介護事業所一覧を入手し、載った番号に片っ端から電話してヘルパーを探した。その際も、ALSと病名を告げたとたん、けんもほろろに断られたそうだ。 

広島市からしてこのありさま。備後地区や郡部ではたん吸引を必要とする患者を受け付けている事業所を探すのは困難を極める。

ヘルパー個人はたん吸引の研修を受け、資格を有しているのにもかかわらず、ALS患者を受け付けない方針の事業所が存在するのは残念でならない。 

こういうときこそ日本ALS協会広島県支部が立ち上がらなければならない。 

支部ではALS患者やほかの難病患者が在宅で暮らすためのサポートとして、介護職の人を対象に、厚生労働省の定めるたん吸引の研修を開いている。われわれの暮らしを支えるだけでなく、幅広い意味での社会貢献につながるものと考える。

 

<中国新聞 2019年(令和元年)6月26日(水曜日)掲載・一部改編>

ALSひるまず力まず14 ~患者会 もっと多くの入会を~

著名人が頭から氷水をかぶって寄付を訴える「アイスバケツチャレンジ」で、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」という病名はある程度浸透してきた感がある。チャレンジで集まった多額の寄付はALSの原因究明や、ALS協会の活動に有効に使わせていただいている。

 そうはいうものの、患者総数に対する会員数(入会率)は意外なほどに低い。都道府県別の入会率は総じて20%以下と低調。広島県支部もご多分に漏れない。病名告知を死亡宣告のように捉えてしまったり、動かなくなった体を受け入れられなかったりする患者、インターネットで情報は十分に得られると考えている患者に入っていただけていないようだ。

インターネット上には多くの情報があふれているが、眉唾ものも多い。時には先輩患者のアドバイスを得て、冷静に判断してほしい。

一人で悩むことなく、悔いのない暮らしを送るためにもぜひとも入会してほしいものだ。まあ、どこの組織も入会すると役職が回ってきたり、おせっかいがいたりして面倒くさいのも確かなのだが…(笑)。

           イラスト・銀杏早苗

日本ALS協会広島県支部の活動の柱は五つある。一つ目は、患者と家族の交流会だ。広島市内で月に1度、県東部と県北部でも不定期ながら開いている。

 後の四つは、最新治療や介護制度の情報共有▽学術講演会の開催▽行政への陳情活動▽たん吸引のできるヘルパー養成―だ。私のような患者だけでなく、患者遺族、看護大学教員、そのほかのボランティアが役員を務めている。広島県外の支部や、ほかの病気の患者会がうらやむほど活発に活動している。

私が会に首を突っ込む以前の活動については、幽霊会員だったので全く知らない。私が支部長になったからには、学術的かつ楽しい支部にしようと躍起になっている。陳情活動も行う患者会として有効に機能するためには、少なくとも5割の入会率が欲しい。

2割程度の入会率では、いくら熱く行政へ訴え掛けようとも、ALS患者の意見を代弁しているとは、言えまい。私が行政の担当者だとしても「一部の意見」として取り合わないに違いない。なんとしても入会率を上げなくては…。

<中国新聞 2019年(令和元年)6月19日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず13 ~患者会 妻の方が熱心だった~

私は現在「日本ALS協会」というたいそう立派な名前の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者会の広島県支部長である。今は活動にどっぷりと漬かっているが、もともと積極的だったわけではない。患者や家族との付き合いに熱心だったのは妻の方だった。

                            イラスト・銀杏早苗

確定診断後、妻は広島大病院で開かれていた難病相談会に独断で出掛けた。そこでALS協会を知り、これまた独断で月1度の協会の患者相談会に参加しては、情報を仕入れてきた。そんな妻の愛と労力に感謝しながらも、シャイな私は感謝の言葉もかけないまま、知らんぷりを決め込む「ダメ亭主」だった。

どうして参加しなかったのかというと、心のどこかでいちるの希望にすがりたかったからだ。「ワシのはALSではない!」と。

そして、病状の進行した先輩患者の姿が自分の将来像に重なり、直視する勇気がなかっただけである。

 妻は先回りして、今後起こってくるであろう問題や、介護の情報を仕入れようと、自宅で療養するあちこちの先輩患者たちを家庭訪問していた。仕入れた情報は、私がショックを受けないように、妻なりのフィルターを介して伝えてくれた。

それでもなお私は患者会活動には全く参加しない「幽霊会員」を貫き通そうとしていたのだが…。そんな折に先代の広島県支部長の訃報に触れた。「頼むけぇ、こっちにお鉢を向けんでくれ!」の願いもむなしく、支部長を引き受けることとなった。支部活動について何も知らないままに。

支部の運営はボランティアで成り立つ。患者、家族、医療職、そして何より遺族が多く残っているのが特徴だ。遺族支部役員の言葉を借りると「自ら経験した自宅介護の経験と知恵をそのまま埋もらせるのはもったいない。路頭に迷う患者さんの役に立ちたい」。

 名ばかり支部長の私は、ベテラン役員の間で小さくなって、全体の流れをつかむまではおとなしくしていた。もちろん、引き受けるからには全力で取り組むのが「三保流」だ。病気に侵されると悩みを一人で抱え込みがちになる。そんな時に悩みを聞いてくれる同士がいるだけで随分と気分が上向くはずだ。そんな会でありたい。

<中国新聞 2019年(令和元年)6月12日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず12 ~「病人が書いた本」ではなくて~

ひょんなことから首を突っ込んだ広島県のオートバイレース史の編さん。「県内で開催されたレースの全てを網羅したろうじゃんか!」と、古い雑誌やレース機関誌などからレースの結果を集めに集めた。出版社に連絡を取り、人生初の本づくりが始まった。

 

日本自費出版文化賞の地域文化部門で入選した著書

 取材を始めてから3年、全てをつぎ込んだ「広島モーターサイクルレース全史」は完成した。広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長から推薦文を頂戴した。県立図書館などの蔵書にもなった。

喉に人工呼吸のための穴を開けたのは原稿の執筆中だった。「声を失うかもしれない」と聞かされて、急いで導入した視線入力パソコンが強い味方となった。筋萎縮性側索硬化症(ALS)が進行しても、最後まで眼球は動く。その動きをセンサーが察知し、パソコンの全ての機能を操ることが可能なのだ。

不自由な両手でマウスを持ち、ゆっくりとしか動かせないもどかしさを思えば、目で見るだけで操作できるパソコンは夢のような道具だった。スキャンした資料を読むこと▽40万字の入力▽写真資料の整理▽編集者やデザイナーとのやりとり―。本づくりの全てに大活躍した。

元来の郷土史好きで、オートバイレース好きだ。執筆作業は楽しくてしょうがない。もはや「この仕事はワシにしかできん!」とまで思うようになった。視線入力パソコンの前での作業は1日12時間を超え、その間は身体が動かぬことなど忘れるほどに熱中した。

「病人が書いた本」という先入観なしで読める記録本が出来上がったと自負している。出版社の担当者に勧められて「日本自費出版文化賞」に応募してみたら、ナ、ナ、ナ、ナント地域文化部門で入選した。「表彰式をやるから東京まで来い」との知らせが届いた。だが入選ごとき(失礼!)で、妻とヘルパーと人工呼吸器を従えて上京するのも何なので、遠慮させていただいた。

本当は、視線入力パソコンで書き上げたことではなく、内容が評価されたのが何よりうれしかった。ハンディキャップがあることで特別視されるのは嫌なもんだから。病で身体が動かなくとも、努力すれば人間できるもんだ。

<中国新聞 2019年(令和元年)6月5日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず11 ~二輪レース史 編さんに集中~

大学生の時にオートバイレースを始めた。当時は男子大学生ならほぼ間違いなくオートバイか車に熱中した。アルバイト代の全てを突っ込み、勉学そっちのけでレースに打ち込んだ。しかし、筋萎縮側索硬化症(ALS)になってからも、情熱を傾けられるとは思ってもいなかった。

ALSの発症前、オートバイで疾走する私(三次市のモトクロス場)

 以前なら考えられないところで転倒したり、ジャンプ中にステップから足が外れそうになったりしても続けていたレース。真剣な勝負をしていたおかげでたくさんの友達ができた。私がALSになったことを知った仲間が「広島でかつて行われていたオートバイレースの記録を残してみないか」と勧めてくれた。 

レース史の編さんが大きな目標になるとは、すぐにはピンとこなかった。だが仕事の後片付けが一段落付くと早速取り掛かってみた。病状の進行期と重なったため、病状に応じた工夫をしながらの取材と資料集めとなった。第一に本がめくれない。ぱらぱらと読み進められないことが、どんなに歯がゆいか。結局、ヘルパーさんに片っ端からスキャンしてもらって、視線入力パソコンで読んだ。 

伝説のライダーやご家族への取材は、思うように声が出せないので妻に電話でアポイントを取ってもらった。車いすで出向き、思うようにしゃべれない私にも戸惑ったことだろう。取材の要点をパソコンでまとめて妻に代読してもらうなど、元気な頃には考えられない苦労だ。「あぁ、元気ならすぐにできるのに~。ALSが憎い」と漏れる。すかさず妻に「本を書く仕事はALSのおかげでしょ!」と尻をたたかれた。 

取材を進めるうちに広島県が、全国有数のモータースポーツ先進地だったことが分かった。大正から昭和の初め、広島市に存在したオートバイメーカーが1200ccの大型車を製造し、その技術は現在のマツダへ継承された。チチヤスは、会社を挙げてオートバイレースに取り組み、好成績を収めていた。 

米国から輸入されたハーレーも広島のレースで優勝を飾っていた。そして、何といっても驚くべきは、広島ではオートバイレースが数万人の観客を集め、市民の身近な娯楽として定着していたことだ。こりゃあ楽しくなってきたぞ~! 

<中国新聞 2019年(令和元年)5月29日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず10 ~「座して待つ」より治験に活路~

「治らない病気なら、進行を止める!」。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の確定診断後に私が公言した三つの目標の一つだ。止まらないのなら、全力で進行にブレーキをかけてやろうじゃないか。「座して死を待つ」のはまっぴらご免。手段は選ばんぞ! 

何せ「原因不明、有効な治療法なし」だ。病名を告知された8年前は、リルテックという錠剤が唯一の保険適用の薬だった。だが、その効果とて「人工呼吸器を着けるまでの期間を平均3カ月遅らせる」程度という。主治医に治験でも何でも受けたい旨を申し出た。 

主治医から芳しい返事がない中、耳よりな情報を得た。小学3年生の時にボーイスカウトで同じ班になって以来、中学、高校、大学まで出席順が並んでいた宮地君が教えてくれた。「東北大でエビデンス(科学的根拠)のありそうな治験をやっているぞ」。宮地君は脳神経内科医の宮地先生になっていた。

イラスト・銀杏早苗 

自分の歯科医院は代わりの先生に任せて、心は東北大病院に飛んだ。仙台まで行く気満々になり、うまそうな牛タンの店を調べたりした。主治医に治験の参加を依頼したが、頸椎(けいつい)症の手術を受けていたのがネックで、書類審査ではねられた。 

すると、宮地先生がまた、三次市のビハーラ花の里病院でも治験があると教えてくれた。ビタミンB12製剤の大量投与と、脳梗塞の治療薬と抗生剤の組み合わせが、ALSの進行を遅らせるかもしれないという。すかさず紹介してもらい、間もなく治験を受けるための短期入院となった。 

入院してみると山の中のこの病院は、全国から治験を受ける患者が集まるALS治療の最前線基地だった。当時、多くの患者は、リルテック錠以外の有効な治療が受けられずに途方に暮れていた。そんな中で私は、今、考えられるベストな治療を受けている。治験に精神的安らぎを見いだし、全力で取り組んだ。 

現在も病状の進行にブレーキをかけるべく、あらゆる情報網を駆使して、ベストな治療を求めている。iPS細胞を使っての新薬開発が活発な昨今、多くの薬が治療に応用されるはずだ。ALSを取り巻く環境は「お先真っ暗」ではない! そう思えば治療もまた楽しい。 

<中国新聞 2019年(令和元年)5月22日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず9 ~わが医院 幕引きへ猪突猛進~

私は昔から「勉強して成績を上げる」というような漠然とした目標を達成するのが大の苦手だった。その代わりに実現可能な直近の目標を立てては大きな声で公言し、その実現に猪突(ちょとつ)猛進するのは得意だ。「このドリルを1週間で1冊仕上げるぞ!」と決めて、成し遂げることで快感を得るタイプ。見方を変えれば持続力がないだけとも言うが…。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症したからといって、心まで侵されることはない。現在に至るまで次から次へと、直近の目標を掲げている。こういった私の猪突猛進型の性分は、ALSという難敵に対峙(たいじ)するのに大いにプラスに作用している。

 「熱中できる目標を持つ」と、日々の暮らしにエネルギッシュになれる。「アレもできなくなった。コレもできなくなった」と悲観せず「アレもできる! コレもできる!」という気持ちが大事。「やっと時間ができた」くらいに頭を切り替えた。

 ALSと診断されてから、三つの具体的な目標を公言した。一つ目は、つらくてもやらねばならないこと。そう、思い出の詰まった歯科医院の閉院だった。

 

みほ歯科医院を閉じる日、私を囲むスタッフと記念撮影(広島市南区)

広島市南区に「ゴリラのマーク」のみほ歯科医院を開設したのはもう17年前。患者さんと従業員に恵まれ、地域医療に携わるのは、忙しくも幸せな生活だった。だが、指先や腕にも症状が現れ、ALSと病名を告知される頃には診療が苦痛になってきた。

治る見込みのない進行性の病と知ってからは、医院の後片付けに全力で取り組んだ。患者さんと従業員を路頭に迷わせるわけにはいかない。医院を任せられる先生探しにまい進した。「同窓会や医局を頼ればすぐに見つかるだろう」くらいの気持ちでいたが、すんなりとはいかなかった。

後任の先生にすべてを引き渡した上で、みほ歯科医院に幕を下ろしたのは2012年末のことだった。診療所を手放すのは開院以上に大変だった。だが、この時期は日増しに症状が悪化していたので、悩む暇もなかった。

さて、あと二つの目標は「病気の進行を全力で止める」「広島のオートバイレース史をまとめる」。さあ全力で突っ込むぞ。 

<中国新聞 2019年(令和元年)5月1日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず8 ~人工呼吸器 すっかり一部に~

人工呼吸器を装着するか、しないか―。筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された多くの患者が直面するのが、その決断だろう。

私は診断直後に「人工呼吸器を装着して生きる」ことを選択した。たんを出す目的で6年前に早々と、のどに穴を開ける気管切開の手術を受けた。

ただ、気管切開してすぐに着けたカニューレという器具はあまりに苦しかった。それで、人工呼吸器の装着を極力先延ばしにしていた。というよりも拒んできた。しかし実際は拍子抜けするほどあっけなく人工呼吸器につながれた。鼻マスク呼吸器に慣れていたのもあり、すぐに違和感はなくなり「自分のモノ」にした。

2016年2月に人工呼吸器を着け、3年になる。装着の直後から血液中の酸素濃度は日に日に上昇し、反対に二酸化炭素濃度は低下した。するとそれらと連動するように、すっかり病状の進行は止まった。いや、むしろ好転したと感じるほどだ。

現在は「ALSの病魔」におびえることはない。起きている時間は車いすに座り、視線入力パソコンを使ってお気に入りの音楽を聴きながら、書き物、講義や講演会の準備に時間を費やす。視線入力パソコンを車いすにも取り付けた。すると、長く休ませてもらっていた歯科医師会の仕事を再びできるようになった。

 カープファッションに身を包み、マツダスタジアムに出向く

諦めていたおしゃれも楽しんでいる。マツダスタジアムに頻繁に出かけたり、旅行を楽しんだり。全身が活力に満ちている。

もともとジッとしているのが苦手な私は、人工呼吸器を装着した自分にもできることを見つけ、ベストを尽くすことを信条としている。そんな様子を間近に見る妻は「こんなことならもっと早くに人工呼吸器を装着するんだった」と笑う。

家族やヘルパーの力を借りて、あと30年はこのまま生きていけそうな気がする。現在は治療が難しいと言われるALSだが、30年の間には必ず「治る」病となる日が来るものと信じている。人工呼吸器を装着する以前は、「死」と向かい合う恐怖を感じていた。そこから解放された安堵(あんど)感でいっぱいだ。

<中国新聞 2019年(平成31年)4月24日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず7 ~入れ歯感覚 胃ろうスタート~

ろれつが回らなくなってきたのと時を同じくして、舌の動きが悪くなり食べ物をうまくのみ込めなってきた。

デブ特有の早食いだった私も次第にゆっくりのみ込むようになり、日に日に食事時間が延びていった。

       イラスト・銀杏早苗

 1回の食事に1時間近くかかるようになった頃には、食事を残すようになった。それまでの私では考えられないことだ。この時期は粘りのある食べ物の方が食べやすくなり、卵かけご飯をメインに据えて、ご飯にいろんな物を合わせて口にした。

うまく食べ物をのみ込めないと、つい上を向いて喉に落とし込もうとしてしまう。だが、この姿勢は誤嚥(ごえん)の危険が増すように感じる。飲み物もそのまま飲むとむせることが多くなった。市販のとろみ剤を混ぜてみたが、肝心の喉越しが感じられない。「うまい!」とは程遠いものだった。

となると、いよいよ事前に開けておいた「胃袋ピアス」(胃ろう)の運用開始だ。胃ろうからの注入食で、口から取る栄養の減少を補う。口と胃の両方を使う期間を経て、誤嚥が著しくなり、とうとう口から食べることを諦めた。

摂食・嚥下(えんげ)障害というと、歯や口の中の問題と考えられがちで、口の中のケアを優先することがある。しかし病気によっては、胃ろうからの水分補給、栄養補給に早めに切り替えたほうが安全だろう。

胃ろうをつくることに抵抗を感じる方も多い。でも、歯科医でもある私はこう説明する。「歯がなくなったら入れ歯を入れるでしょ? それと同じでのみ込みができなくなったから胃ろうで補うだけなんです」

何かの拍子に唾液が気道に入ると、そのたびに呼吸が浅くなった。血液の中の酸素濃度が低下し、呼吸困難を何度も経験した。そこから生還するには気管内のたんを吸引して取り除かなければならない。呼吸が浅くなった状態での吸引はとてつもない苦痛で、意識を失う寸前だ。

たん吸引を終えると鼻マスク呼吸器を装着し、目を閉じてじっとするほか手がない。思い返してもこの頃が最も苦しかった。ALSに「寄り切り負け」するところだったのかもしれない。

 <中国新聞2019年(平成31年)4月17日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず6 ~視線を動かせば会話も自在~

現在はまったく発声ができない。何かを伝えたくても「ア~~!」としか発することができない時期も経験した。声は出るのに言葉の通じないもどかしさと言ったら…。人の2倍しゃべり倒してきた私には耐え難かった。 ALSと診断された後、舌が萎縮してうまく発声できなくなり、どんなにゆっくりしゃべっても相手に通じなくなった。

全身が動きにくくなる筋委縮性側索硬化症(ALS)患者の闘病生活は、過酷を極めると言われる。その理由のほとんどは、コミュニケーションが取れないことによるのではないか。

声を失った人の多くが手話や筆談でコミュニケーションを図る。 しかし、声が出ないALS患者のほとんどは腕や手にも障害を抱えているため、手話や筆談は不可能ときている。

       イラスト・銀杏早苗

残された手段は「目」。ALSになっても視力は奪われない。全身の筋肉が動かなくなっても、眼球の動きは最後まで確保される。目を使った会話には、口の形とまばたきで文字を伝え形とまばたきで文字を伝える「口文字」や、「透明文字盤」を使う方法がある。

透明文字盤は、五十音や数字が書かれた透明な板のことだ。この板を挟んで会話する相手と向き合い、目線を動かした先の文字を相手に読んでもらう。その目線を機械に読ませるのが「視線入力パソコン」。ALS患者の最も強い味方で、私も愛用している。

 インターネットの閲覧、動画の編集、テレビの視聴や録画…。パソコンに赤外線センサーを取り付けて、眼球の動きを読ませるだけで、パソコンのすべての機能を操作できる。 伝えたいことを声に出すこともできる。

私は1日の大半をこのパソコンの前で過ごす。「iTunes (アイチューンズ)」でお気に入りの音楽を聴きながら、多い日は1万字近くの文字を入力する。

私は透明文字盤と口文字、視線入力パソコンの3通りを使い分ける。 これらは、誤嚥性肺炎を起こした際も、正確な病状や気持ちを伝えるのに大活躍した。状況が伝えられなかったらひょっとすると死んでいたかもしれない。

コミュニケーション手段を確保した私の暮らしは今、会話と笑顔にあふれている。いわゆる「闘病生活」とはほど遠い。

 <中国新聞2019年(平成31年)4月10日(水曜日)掲載・一部改編>

ALSひるまず力まず5 ~1歩目が出ない何か変だ~

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の症状の出方は、個人差が大きい。私が「何かが変だ」と最初に気付いたのは、2010年の夏だった。

海水浴に行ったビーチで、ライフセーバーの体験講習のようなものをしていた。砂浜に腹ばいになった状態から起き上がり、砂に刺さった前方のフラッグを奪い取る競技に、家族で参加した。柔道で鍛えた体には自信があったのに、私は1歩目の脚が出なかった。

        イラスト・銀杏早苗

 娘と妻の目には「歳なんじゃない?」と映ったようだ。しかし、私の心の中で、何らかの歯車が音を立てて崩れた。

その後、何が何だか分からないまま症状は進んでいった。 起床時に脚がつる。片足立ちになって靴下が履けない。趣味のモトクロスバイクで転倒を繰り返す…。整形外科を受診すると、症状と検査の画像から、頸椎(首の骨)の変形で脊髄が圧迫されていると診断された。頸椎5本にわたる手術を受けた。

手術の後は、それまでのぎこちない歩行がうそのようにスムーズに脚が出た。「こりゃあ治ったぞ」と確信した。なにせ、術前にはつえを突きながら100㍍歩くのがやっと。それが、若干爪先の上りが悪いのを除けば、つえなしで3キロ歩くのもへっちゃらになったからだ。

ところが手術から3カ月を過ぎる頃から、症状は再び悪化した。今度は腕にも力が入らない。駅の地下道の階段を下りようとして、最初の一歩が出ずに頭から落ちたこともあった。妻と娘は「間違いなく死んだ」と感じたらしい。

だが私は、かすり傷ひとつなく、むんずと起き上がった。それは柔道が身に付いていたからだと断言する。これからALSになる方(?)には柔道を勧めておく(笑)。

歩き方の異変に気付いてからALSの診断に結び付かなかったのは、今もって悔やまれる。だが、これには理由がある。

診察で行う握力測定で、私はいつも55キロ程度を記録した。同い年の男性の平均は優に超している。筋力低下を主な症状とする病名は、真っ先に除外されたのは言うまでもなかろう。

<中国新聞 2019年(平成31年)4月3日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず4 ~その後の人生 支える告知を~

ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者に限らず、治りにくい病気の患者にとって、病名の告知は非常にデリケートな問題だろう。

「どうやらALSらしい」と言った私に、友人の医師は「ALSって、患者に病名告知するの?」と驚いた。彼はALS患者の壮絶な暮らしを知っているから、そんな発言になったのだろう。

対照的に私は、何の予備知識もなくALSという現実に直面した。すべてのことに先入観なしに対応できたのは良かったのかもしれない。他の患者に聞くと、神経内科医から病名と「死に至る」とだけ聞かされ、他に何もしてくれない例も多い「らしい」。

らしいに「」を付けたのには理由がある。多くの患者は、身体の異変を感じてから確定診断までの間に、いろいろな病院のいろいろな科を受診する。やっとの思いで診断がついたかと思えば、ALSという耳慣れない病名。その上、死に至ると聞かされると頭の中は真っ白になる。その前後の言葉は耳に届かないのかもしれない。きっとそうだ。

 

        イラスト・銀杏早苗

また、死に至るには必ず「人工呼吸器を着けなければ」という前置きが付くはずなのだが、「死」という言葉が重過ぎて耳に残らないのかもしれない。なのに病名告知の直後に、人工呼吸器の装着の選択を迫られる。それは早過ぎるのではないだろうか。

どんな病でも、病名告知は患者のその後の「生き方」「人生」を大きく左右する。とりわけALSのように、有効な治療法がなく人工呼吸器を着けなければ死に至る病の場合は深刻だ。告知の仕方によっては、深く考えずに人工呼吸器を着けないことを選ぶ患者もいるかもしれない。

患者に大切なのは、病名告知を死亡宣告と捉えず、その先の生き方を熟考することだ。やりたかったことを目いっぱいやるのもいい。自分の価値観や思いを家族に伝えるのもいい。最後の一瞬まで仕事にまい進するのもいい。私がそうだったように、病気の進行にブレーキをかけることに、力を注ぐ人もいるだろう。

いずれにしても、これから病と対峙しなければならない患者と一緒にスクラムを組んで、背中を押すような病名告知であってほしい。

 <中国新聞 2019年(平成31年)3月27日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず3 ~祈りつつセカンドオピニオン~

病名を告知されてから次の受診までの間は、「どうかALSでありませんように」と祈るような気持ちだった。「ALSのはずがない!」と自分に言い聞かせる毎日を過ごした。 そんなある日、こうひらめいた。セカンドオピニオンを求めてみようと。

 歯科医師である私は、セカンドオピニオンを求めると、主治医のプライドを損ねるような気がして抵抗があった。そこで「病名が病名なだけに」という枕詞と「どこへでも行きますので先生の信頼する先生を紹介して下さい」をセットに切り出してみた。

 

        イラスト・銀杏早苗

すると意外なほどにすんなりと、信頼に値する第一人者の先生を紹介してくれた。主治医の先輩の医師だった。

年配の患者は「お医者様がそうおっしゃるのだから」とセカンドオピニオンを避けることもあると聞く。医師も人の子だ。神様ではない。 セカンドオピニオンは患者に与えられた正式な権利だから、必要とあればためらうことなく求めるべきだろう。

セカンドオピニオンのために1週間ほど入院した広島県外の大学病院でも、針筋電図検査というチクチクと痛む検査を中心に受けた。 期待もむなしく「やはりALSで間違いないと思われます」と告げられた。

その後、人で私の病室を訪れた若いドクターから「ALSという病気をいかがお考えか?」と問われた。普段から深刻な話もおちゃらけて返答してしまいがちな私。「今までは手先の器用さで仕事をしてきましたが、この先そうも行かないとなれば頭を使った仕事を考えないといけませんねえ」と、若干の強がりを含んだおちゃらけた笑顔で回答した。

すると、返答に窮したドクターの顔には「こいつ何も分かってないなぁ」と書いてあった。あの顔が忘れられない。

しかし、今になって思えば、ドクターの思いが分からないでもない。一般的にALS患者について「気管切開し、人工呼吸器を装着するため意思疎通が困難で、筆舌に尽くしがたい壮絶な闘病生活を送るもの」と考えられていたからだ。いや、今もって意思疎通が困難な患者は多くいるのだから、あながち間違いではない。

<中国新聞 2019年(平成31年)3月20日(水曜日)掲載>

ALSひるまず力まず2 ~告知受け死が頭をよぎった~

神経内科の主治医に、私はこう伝えた。「なぜかは分からないが、何もしていないのに胸の筋肉が、昔CMではやったムキムキマンのようにピクつく」。すると、主治医の顔色が変わった。私は不思議な感覚に包まれた。主治医のまなざしの奥にある現実を知りたいような、知りたくないような…。

 その半年前、今考えると、病気の症状が現れ始めていたのだろう。脚が突っ張るため、頸椎(けいつい)症の手術を受けた。術後、一時的に快方に向かった。しかし一向に、ロボットのような歩き方が改善しない。業を煮やして整形外科医から紹介してもらったのが、この神経内科だった。手術の前後の検査画像を携えて受診した。

 主治医も当初は「頸椎症の影響ではないでしょうか」と話していた。しかし、何カ月後の受診だっただろうか。私は自ら切り出した。

「筋萎縮性側索硬化症(当時はALSという略語を知らなかった)か、HTLV―1関連脊髄症ではないでしょうか?」

インターネットの情報を頼りに自己診断した結果だった。ALSと脊髄症では、発症後の経過に大きな違いがあった。ALSには必ず「発症から3年から5年で死ぬ」との文言が付いていた。私はそこから目をそらし、脊髄症に違いないと自らに言い聞かせた。

 神経の病気に的を絞った検査が始まった。一向に良くならない原因が分かることに期待しながら、ALSでないことを祈りながら、検査は続いた。そして主治医から言われた。「ALSだと思われます」

イラスト・銀杏早苗                          

 予想していたとはいえ、頭は真っ白になった。「ホーキング博士のように人工呼吸器を装着して長く生きる例もありますから」との言葉は、何の慰めにも気休めにもならなかった。

一生車いすで生きるのか…。ホーキング博士の姿を自らに重ね合わせると、言葉が出なかった。診察室内では気丈に振る舞ったものの、診察室を出てベンチで待つ間に「死」というワードが頭をよぎった。自然と涙が頬を伝ったように感じられた。

妻が隣で「父さん…」と言っているようだった。その声も、どこか遠くに聞こえた。

<中国新聞 2019年(平成31年)3月13日(水曜日)掲載>

磯村選手

今朝(5月27日)の中国新聞にこんな記事が!

実は私宛に磯村選手からチケットを頂き、当支部から同病患者二組が観戦することになってます。

私的には封筒の磯村選手のリアルなサインが宝物かも(笑)。

マツダスタジアムの車椅子席は超おススメなんですよ!

磯村選手、超~応援します!

間を取り持って頂いた真田先生、ありがとうございました。

ALSひるまず力まず1 ~それでも私は生き抜くのだ~

「シュー、シュー、シュー」。人工呼吸器の機械的な一定のリズムが、自室に響く。私はひたすらに天井を見つめる。自力では寝返りすらできず、誰かに気付いてもらうまでジッと我慢するしかない。そう、私は人工呼吸器を装着したALS患者だ。

(愛犬を抱え、パソコンで文字を視線入力する私)

ALSとは筋萎縮性側索硬化症のこと。運動をつかさどる神経が侵される進行性の病だ。知覚や自律神経には症状が表れない。「蚊が止まって血を吸っているのは分かるが、払いのけることができない」と言えば分かりやすいだろうか。

 人工呼吸器を装着しないと、発症から3~5年で呼吸不全により死に至る病でもある。年間に10万人当たり1~2人が発症するといわれ、全国には9千人以上、広島県内に200人以上の患者がいる。

 これだけ多くの患者がいるにもかかわらず、「原因不明」「治療法なし」と言われており難病に指定されている。多くの研究者の努力で原因解明に近づいており、根本治療法の確立に期待している。

ALSに体を侵されて8年が過ぎた。人工呼吸器を装着して3年がたつ。人工呼吸器を着けると全く声は出ない。手足はほとんど動かなくなった。三度の飯より好きだった食事(あっ、矛盾してる=笑)も飲み込めないので諦めた。

 太鼓腹を貫いて胃袋から皮膚まで貫通する穴を開ける「胃ろう」で栄養を補給する。80キロ以上あった体重も47キロになってしまった。あれだけ太かった首も随分細くなり、首が座らなくなった。排せつから着替えまで日常のすべてに介助が必要だ。自在に動かせるのは眼球とまぶただけ。それでも生き抜くことを私は選択した。

 長年の趣味のモトクロスレースも、中学生で始めた柔道も諦めた。でも、体は動かなくとも心の中では今でもライダーだし、柔道という「道」も歩み続けている。いわゆる歯科診療はできなくなったが、心は今でも歯科医師だし、今後も歯科医師として生きていく。

 病気の影響を受けにくい眼球の動きでパソコンを操り、多い日は一万文字を入力する。私は病人として療養生活を続けるつもりはない。社会の一員として社会生活を続けたい。これからが人生の勝負だ!

 <中国新聞 2019年(平成31年)3月6日(水曜日)掲載>

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